こしの都1500年
越前ふくいの
歴史文化の源流
― 歴史と文化の誇りを未来へ ―
福井県はかつての越前国と若狭国から成っている。ここでは越前という国の歴史的地位について巨視的にみてみたい。
越前から越後にかけての地域は古くは「越国」(『日本書紀』)、「高志国」(『古事記』)、「古志国」(『出雲風土記』)と称されていた。その由来は、枕詞に「遠々し高志の国」(『古事記』)、「科離る越」・「み雪降る越」(『万葉集』)とあるように、「海や山を越えて行く遠い雪国」であったことによると考えられる。そして、この国はこれまでの研究成果から、翡翠をはじめとする美しい玉類・光沢ある絹、おいしい米などを産する豊かな国で、しかも建築や堰づくりの高い技術をもち、美人の多い土地柄として他国の人びとにもよく知られていたのである。
その後、律令時代になると、国は土地と人民を詳細に把握するために、「越国」を都に近い方から順に「越前」・「越中」・「越後」と3カ国に分割した。それは、7世紀末・今から約1300年前のことであった。当初、越前国は敦賀半島から能登半島にまたがる広さであった。しかし、その後、養老2年(718)に能登国が、弘仁14年(823)に加賀国がそれぞれ分立したため、越前国は面積を著しく減じた。その後、面積の変化はほとんどない。
弥生時代前期に越前地域に稲作が伝播すると、広い平野と豊かな水に恵まれた当地域はたちまち越国の中心となり、特産品づくりにも成功し、王墓が誕生する。
まず、弥生時代の象徴的遺物といってよい銅鐸が、越国の中で越前地域からしか発見されていないことからも明らかである。当時、越前は先進的な銅鐸祭祀圏に入っていたのである。現在、銅鐸は6個発見されていて、古式(中期初頭)から新式(後期末)まである。驚くべきことに、中期の加戸下屋敷遺跡(坂井市三国町)からは、銅鐸鋳型の未成品が出土し、銅鐸工人が当地に来て銅鐸製造に携わっていたことが明らかになった。また、ここでは、玉造工房跡も発見され、多くの工具類や玉類(勾玉・管玉)が検出されている。発見された翡翠の原石は越後の青海川や姫川の上流域で産出するもので、そこから移入し、加工し、移出していたのである。当時、この地域の特産品であったことが理解できる。
弥生時代後期後半になると、出雲で盛行していた四隅突出型墳丘墓が小羽山墳墓群(福井市小羽町)へ波及し、小羽山30号墳丘墓が築造され、以後、加賀・越中へと波及する。副葬品は、鉄製短剣・ガラス製勾玉・管玉や碧玉製管玉などがあり、そのころの他国の王墓とそん色がない。また、同じころに築造された西山公園方形墳丘墓(鯖江市)出土の有鈎銅釧9個も副葬品としては日本で3番目の出土数を誇る。いずれもそれぞれの地域の王墓である。
さらには、弥生時代における鉄器出土数が全国で2番目に多い(1位は福岡県)ことも、越前地域の繁栄を示している。そのころ、鉄は朝鮮半島から輸入されたものであり、日本海を通しての交易が盛んであったことを物語る。
古墳時代を通して、越地域で最大規模の前方後円墳は越前にある。4世紀前半では今北山古墳(鯖江市・墳長75m)で、次に続くのが柄鏡塚古墳(福井市・墳長・61m)である。4世紀中ごろから後半になると、手繰ヶ城山古墳(永平寺町・128m)・六呂瀬山1号墳(坂井市丸岡町・140m)が出現する。しかも、両古墳は葺石・埴輪・段築があり、後円部に石棺(笏谷石製)をもち、従前とは異なる。この大きな変化は何を物語っているのか。
『日本書紀』によると、
・崇神天皇10年 大彦命の北陸派遣
・景行天皇25年 武内宿禰の北陸派遣
・同 40年 吉備武彦の越派遣
とあり、中央政権との関わりが深まったことの反映であると考えられる。
この後、5世紀前半から末にかけて、六呂瀬山3号墳(坂井市丸岡町・全長85m)、石船山古墳(永平寺町・80m)、二本松山古墳(同・83m)と続く。いずれの古墳も刳抜式石棺をもつ。越前のみならず、越の中で石棺をもつ前方後円墳はこの首長系譜のみであり、越の最高首長といっても過言ではない。九頭竜川が福井平野に注ぐ両岸の山上にこれらの古墳を築いた5代の首長たちと深く関わりのある人物がいたのである。それは、継体天皇の母、振媛である。
振媛の出自は、「三国坂井県多加牟久村」(『上宮記』逸文)・「三国坂中井高向」(『日本書紀』)とあり、この地域は現在の坂井市丸岡町高椋地区・東高椋地区である。先の大型前方後円墳のある麓が母の里であり、振媛はこの大首長墓の系譜につながる人物であったことは確かである。なかでも、5世紀末の二本松山古墳は標高273m余りの山頂に築かれ、この時期としては、越最大の前方後円墳である。しかも、後円部に2基の舟形石棺をもつ。
新しい石棺は江戸時代に盗掘され、金銀朱器が出土したと伝える。石棺の縄掛突起は身に10個、蓋に8個計18個あり、全国最多である。墳丘の中心にある古い石棺は、明治時代末に偶然発掘され、鍍金冠・鍍銀冠・甲冑・鏡・玉などが出土した。この石棺の縄掛突起数は、身に4個、蓋に6個計10個であった。古い石棺には兄の都奴牟斬君が、新しい石棺には振媛が埋葬されたと考えられる。
なお、先の書によれば、振媛は彦主人王の死後、幼い男大迹王(後の継体天皇)を連れて帰郷し養育したとあるから、継体天皇はこの地で生育したのである。そして、武烈天皇の死後、大伴金村らに迎えられて507年、河内樟葉宮で天皇に即位する。
男大迹王の天皇即位後、越前の大型前方後円墳は、これまでの地を離れて、福井平野東北隅の横山古墳群(あわら市・一部坂井市丸岡町)に移動する。6世紀初頭から中ごろにかけて、順に築造された椀貸山古墳(坂井市丸岡町・42m)、中川奥一号墳(あわら市・47m)神奈備山古墳(あわら市・58m)・中川南古墳(あわら市・50m)である。発掘された古墳は、いずれも横穴式石室をもち、内部に北部九州系石屋形をもつ。
この地は、現在のあわら市御簾尾であり、「坂井郡水尾郷」「三尾駅」の故地と考えられる。「三尾」で思い出すのは、継体天皇の妃に「三尾角折妹君稚子媛」と「三尾君堅楲女倭媛」がいる。多くの研究者は、彼女らを近江出身で高島郡三尾とするが、これは全く譲れない。なぜなら、横山古墳群は約240基の古墳から成り、しかも前方後円墳が20基集中し、特に6世紀代の前方後円墳が10基、2群に分かれて確認されているからである。ここが三尾氏の本拠である。継体天皇ゆかりの地でこのような所は他にない。以上のように、継体天皇の生育地、その母や妃の里が越前であったことは、古墳が雄弁に語っているのである。
律令時代、越前は北陸道に属し、他に若狭・加賀・能登・越中・越後・佐渡の7か国からなっていた。当時、国は上位から順に大国・上国・中国・下国の4等級に分けられていた。越前は北陸道のみならず、日本海沿岸地域の中でも唯一の大国であった(『延喜式』)。このころ、日本には60余国あり、大国は13か国であった。
大国である越前国司の特権は、北陸道管内国司の治績を調査・監督し、あわせて民政安定のため直接指導する権限を有していたことである。すなわち、越前国司は北陸道の国司の中の国司であったのである。事実、興味深い資料がある。延暦9年(790)律令政府が諸司の定員見直しをしたとき、越前と肥後の2か国のみ定員増が認められている。その理由は、「元来殷盛、勾察事多し」(『類聚三代格』)からであった。「元来殷盛」つまり古くから繫栄した国であったのである。また、越前は、「固関の国」でもあり、三関の一つ「愛発関」が設置されていた。
天平宝字8年(764)、政界の実力者恵美押勝(藤原仲麻呂)が乱を起こした際、押勝は、越前国司をしていた息子の辛加知を頼ろうとしたが、固関が実施され、押勝は越前に入ることができず近江で討伐された。このことからも分かるように、越前国司は中央政界の重要人物が任命されたのである。
越前は日本海を通じて大陸とつながっていたため、古来、渡来人、特に秦氏が多く、絹織物が盛んであった。渡来神を祀る神社もあり、外来の出土品も多い。特に、律令時代前半には「海東の盛国」といわれた渤海国と交流を深め、渤海使のために越前には松原客館(敦賀津)が、能登には能登客院(福良津)が設けられた。当初は、唐・新羅に共同で対抗する軍事的な意味もあったが、唐と渤海との関係が安定してくると、交易・文化交流が中心となっていった。
渤海使は34回来日し、遣渤海使は13回派遣され、あわせて47回の交流があった。この間、遣唐使は8回であったことを考えると、当時、日本外交の最前線は日本海沿岸、特に、越前にあったといっても過言ではない。
南北朝時代、越前で南朝(後醍醐天皇)方と北朝(光明天皇)方とが約5年にわたって熾烈な戦いを繰り広げたことはつとに有名である。その実情は『太平記』や「軍忠状」の史料からうかがい知ることができる。
南朝方の大将は鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞で、北朝方の大将は室町幕府を開いた足利尊氏一門で三管領のひとり、越前守護斯波高経であった。両朝とも実力者を越前に差し向けたところにこの地の重要性が見てとれる。
後醍醐天皇は義貞に我が子で皇太子の恒良親王(『太平記』には三種神器を譲ったとある。)と尊良親王の二人をつけたことからも天皇の意気込みが感じられる。このことから、南朝方は北陸王朝を樹立しようとしたとか、北陸管領府を設置しようとしたとか言われている。南朝方は善戦したが、義貞が早くに討ち死にしたこともあって、北朝方の勝利に終わった。
この合戦時に但馬国から北朝方として越前に入ったのが越前朝倉氏の祖広景である。その後、7代孝景が戦国大名となる11代義景まで五代100年余にわたって越前を支配した。
当時、濁世を浄める人物、いわゆる天下を統一する人物として世評では、「越前の朝倉義景・甲斐の武田信玄・尾張の織田信長」と『多門院日記』にあり、朝倉義景が筆頭に挙げられていた。一方、朝倉氏の史料『朝倉宗滴話記』の中に、「天下を取り、御屋形様を在京させ申すべき武略、重々様々思案候」とあり、朝倉方にも天下取りの考えのあったことが分かる。また、宗滴は、「命が惜しいからではないが、もう少し長生きしたい。それは、織田信長の行く末を見届けたいからだ。」と言っている。
このように勢威を誇った朝倉氏も、宗滴が予見した信長との戦いに武運つたなく敗れ、滅亡した。
その後いろいろあったが、越前を領有した信長は、「当国ハ大国ト云ヒ北陸道ノ要メナレバ」(『朝倉始末記』)といって、宿老で猛将の柴田勝家を北庄に配した。北庄城下は「九重に上げた天守を中心に広がり、その面積は安土城下の二倍であった。」とポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは書簡文で伝えている。また、フロイスは著書『日本史』の中で、越前を「日本における最も高貴で主要な国の一つであり、洗練された言葉が完全な形で保たれている。」とも記している。
信長が本能寺で明智光秀に討たれると、勝家は羽柴秀吉と対立したが、賤ケ岳の合戦で秀吉が勝利し、信長の後継者として天下統一を進める。そして、越前には、信長の宿老であった丹羽長秀を配置する。その所領は若狭・加賀半国にも及び、石高は100万石以上であった。秀吉の姓「羽柴」は丹羽長秀と柴田勝家の武功にあやかり、二人の姓から一字ずつとったもので、その両雄が越前に配されているところにこの国の地位の高さがうかがえる。
秀吉亡き後、関ケ原の合戦で勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康は、越前を「肝要の地」(越前市「藤垣神社文書」)として、将軍職を継いだ三男秀忠の兄、結城秀康を越前に封じた。隣接する外様の大藩・加賀前田家100万石の押えとして、石高68万石であった。
以上のように、越前の歴史を巨視的にみてみると、越の国、北陸道のみならず全国的にみても高い地位にあって繫栄し、日本史上においても枢要の地であったことが分かる。
その中心地は、松岡(永平寺町)・丸岡(坂井市)〈約350年間〉から御簾尾(あわら市)〈約100年間〉、そして、武生・府中〈約800年間〉、一乗谷(福井市)〈100年間〉、北庄・福井(福井市)〈約450年間〉へと変遷する。いずれも越の都(中心地)であった。中でも、武生・府中は大化の改新以後、朝倉氏が一乗谷を本拠地とするまでその中心地となり、約800年間その地位を保ったのである。北庄・福井は柴田勝家以後であって、約450年間に過ぎないのである。
今、越前地域をかつて、「越の都」であったと称する理由は、大きな時代の変革期に当たり、
(1)越前の歴史を学び、郷土への誇りと愛着をもち、将来への明るい展望をもつこと
(2)各人がそれぞれの分野で活躍し、福井の発展に資すること
を願ってのことである。
元福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館館長
青木 豊昭
青木豊昭 氏
福井県鯖江市生まれ。1985年より福井県立博物館学芸課長、1993年より福井県教育庁埋蔵文化財調査センター所長、1997年より福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館館長を務める。現在は、鯖江市・国史跡兜山古墳環境整備検討委員会委員長、坂井市・国史跡六呂瀬山古墳群調査整備委員会委員などを務めている。主な著書は『福井県史』、『六呂瀬山古墳群』、『継体大王の謎に挑む』『継体大王と越の国』『越前・若狭 地域史の謎に挑む』ほか多数。
■ 参考文献
青木豊昭 2016年 「古代史から読み解く、越前という国、その歴史的地位 『越前歴史読本』 KADOKAWA
青木豊昭 2008年 「越前国の地位ー各時代の人々の評価ー」 『会誌 ACADEMIA』113号 全国日本学士会
■ 写真出典一覧
1 福井県埋蔵文化財調査報告 第4集『六呂瀬山古墳群』 1980年 福井県教育委員会
2 福井市立郷土歴史博物館研究報告『小羽山墳墓群の研究』−研究編− 2010年 福井市立郷土歴史博物館
3 『継体大王と越の国』 1998年 福井新聞社
5.6 『戦国大名朝倉氏 その戦いの軌跡をさぐる』 2002年 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館